昭和44年06月20日 夜の御理解
自分に都合の良い人はみんな良い人であり、自分に都合が悪かったり、また自分に敵する人は全部悪人であったり、良くない人であると。そういう生き方からは決してよい幸せは生まれて参りません。どうでも信心をさせて頂くなら、なるほど都合の良い人は良い人でいいとしましても。自分に都合の悪い人、その人は良い人ではなくてから神様と見えるようにならなければね、本当のおかげにはならんと思う。勿論その人が神様じゃなくてもです、その人の向こうにその人を動かしてござるもの。
そこに御神意を私はいつも感じます。ですからあのうあの人は良い人と言うのと、あの人が神様と頂くと言う事はどういうことになって来るかと言うとね、自分に都合の良い人は良い人というのはね、結局自分を中心にして考えておるからです。私は自分中心の自己中心の信心と言うのは、これではいわゆる本当のおかげに到達する事は出来ないと思うんですね。本当のおかげと言うのは、本当に有り難い勿体無いという生活なのでしょうけれども、その有り難い勿体無いという生活はね。
今私が申しますように自分を中心にしたところからは生まれて来ない。どこまでも神様の心を心としてとかね、神様を御中心に申し上げた所の生活、そういう信心でなからなきゃならんと。昨日一昨日でしたが、朝の御祈念の時だったでしょうか、ここであのう御神飯を四つお供え致しますね、その中の二つだけがもう空になってると言うところです。両端にはこうご神飯が盛ってある。そこで私は思うたんですけれども、神様がまぁだ真ん中二つしか召し上がっていない、ままになってござらんと言う感じ。
そして今度は私共も自分達のね、小さいおかげはままになっておっても、本当のおかげなっていない。神様が四つとも召し上がる、神様がままになられるおかげを受けた先には、私共もままになるおかげ、この全部がままになるおかげと、いうことになるのだと言う風に思わせて頂いたんですけれどもね。それがどう言う様な事かと言うと、自分の都合の良い事はおかげとして頂いておるけれども、自分に都合の悪い事はおかげではない。または都合の良い人はよい人であり、自分に都合の悪い人。
自分に敵する人は悪人であったり、悪い人であったりと言う事になっとるんじゃないかとこう思うんです。それを例えばまぁ端的に分からせて頂く事は、例えば福岡の初代が小倉で修行されて御信心奉戴されて、福岡の町に出られて。それこそ僅かばかりの持っておいでおられた物は空っぽになる。いくら祈念力においては、この吉木栄蔵先生の右に出るものはあるまいと、言う程のに熱烈な願行の出来られた方であった。いわゆる祈念力の強いお方であった。
そういう信心の出来られた方の所で、それこそ人の子一人尋ねて来ない取次ぎ求めて来ない。いよいよ先生考えられたんですね。こういう有り難い神様を頂いておりながら、ここで自分がかつれ死にをせねばならんと思うたら、本当に神様に対して相すまんと。そこでだいたいが侍の出でおありになりましたそうですから、浜になんか材木町と言う所があってね、そこに材木が一杯積んであるその中で御祈念をされて、そして自分で自決されようと思うて、短刀でいわゆる腹かき切って死んだと言う事になれば。
神様に対して申し訳が出来ると、自分がかつれ死にしたといやぁ神様の名折れになると言うのでその死を決しられて、まさに自分の腹に短刀を突き立てようとなさる時に、「吉木栄蔵待て」という声がここかかったと。はぁ自分がこういう死ぬか生きるかという一生懸命の時であるから、自分の耳の間違いであろうか空耳であろうかと思うて、また突っ立てられようとすると、「死には当たるまい」ね。というそのまた再三。
そのお声を耳にされてから、それからまたお家に帰られたということです。ですからそこからそれこそ堰を切ったように、人が尋ねて来る様になり、尋ねて来る者はもう百発百中おかげを頂くと言った様な御比礼に輝いた言うんですね。ですからそのう神様と言う方はもう苦しみも苦しみ、何の為に自分は神様から憎まれんならんだろうかと、言った様な苦しまれならんだろうかと言う所を、やはり通っておられます。
その向こうに御神意があったということが分かりますからね。例えば神様と言う方は撫で擦りなさると言う様な、例えばおかげだけを下さるというのじゃないと言う事が分かる。ある場合には善人の、まぁ面を被っておられる。または悪人の面を被っておられる事もあろうというのである。ただその向こうに御神意があるのですから、これはまぁ大変極端なお話ですけれども。
日常の中にそういう私共が信心という、そういう一つの見方思い方と言うものが出来て来る様になります。そこから全てが有り難いのであり、勿体無いのであるという生活、そこにはどうでも自分中心のものであってはならない、いわゆる神様中心に申し上げた信心。それには先ずその自分に都合の悪い人の気持ちになってみる信心と、言った様なものも当然その過程としては起こって来るだろうと思います。
ただ自分の考えだけで事を計ろうとする。それを思うところにあの人は良い人であり、悪人であると言う風になって来るのです。ですから良い人は良い人と致しましても、私共に都合の悪い人と、またはその邪魔をする人適する人、そこに私共は神様を発見するおかげを頂かせて頂く稽古こそが、私は真の幸せと言うか真のおかげ。本当に神様のままになろうとしておられるのは、そういうところにあるじゃなかろうか。そこにおかげを頂かれる本当の道があると思うんですけどね。
どうぞ。